「津金山海岸寺(つがねさん・かいがんじ)」は、山梨県北杜市須玉町にあるお寺です。地元からは海岸寺として永きにわたり親しまれてきました。
ちなみに、津金山というのは山号(さんごう)というもので、仏教の寺院に付ける称号のことです。和歌山県にある空海の「高野山金剛峰寺(こうやさん・こうんごうぶじ)」は超有名なお寺として知られるところですが、高野山がまさに山号にあたります。
今回は、春に彩られた海岸寺と、その歴史、その魅力、みどころなどをご紹介させていただきたいと思います。
海岸寺 その歴史
今から約1300年前(元正天皇の養老元年=西暦717年)、行基菩薩(※1)が庵をかまえたのが、海岸寺のはじまりといわれています。
※1)行基(ぎょうき)は、奈良時代の日本の僧。諸国を巡って仏教の布教や難民の救済をおこなった。また、民衆とともに道路・堤防・橋や寺院の建設等の慈善事業にもあたったが、僧尼令違反として朝廷に不当に弾圧された。
しかし絶大な民衆への影響力から、聖武天皇の帰依(※2)をうけ、奈良の大仏で有名な東大寺や国分寺の造営に尽力した。日本で初めて仏教界の最高位である大僧正に任ぜられ、菩薩の号を賜った。そのため行基菩薩と称される。
※2)帰依(きえ)とは、すぐれたもの(仏や神など)を頼みとして、その力にすがること。
行基菩薩は、土木工事や農業の技術を伝えるとともに、千手千眼観世音の像を彫り海岸寺に祀り(まつり)ました。天平9年(737年)には、聖武天皇より「光明殿」勅額(※3)を賜りました。
※3)勅額(ちょくがく)とは、天皇直筆の書で記された寺社額。
また、寛治年間(1087~1094年)、甲斐源氏の祖である新羅三郎義光(源義光)が甲斐の国主としてこの国を支配するにあたり、京より玄観律師を海岸寺に迎えて鎮護国家(※4)の大道場としました。義光の子、義清も父の志をついで多くの寺領を奉納し、供華(くうげ)を怠りませんでした。
※4)鎮護国家(ちんごこっか)とは、仏教により国をしず(鎮)め、まも(護)ること。
600年程前の応安年間(1368~1375年)、武田信清の孫・清武が、鎌倉・建長寺より石室善玖(せきしつぜんきゅう)和尚を招いて、律宗を臨済宗に改め、海岸寺の開祖としました。
天正10年(1582年)、織田信長による甲斐侵攻の際に兵火によって寺の堂塔や多くの寺宝が焼失してしまいましたが、翌11年には、新たに領主になった徳川家康によって再建されました。慶長8年(1603年)には、さらに寺領が寄進され、徳川家の天下安寧の祈願所と定められました。
万治4年(1661年)、山火事により堂塔が全焼してしまいましたが、寛文6年(1666年)、中興の祖・即應宗智(そくおうそうち)和尚によって再建され、現在に至ります。
夫より段々思ひ
しあんなそ
めくらし 色々
と 工夫をなし
誠にけふの御勤め
而巳斗 外に
何と思ひ付事も
あらむこそ
唯けふ晨を
勤けふの日行斗
– 守屋貞治旅日記より –
【 瞑想 参禅 舞台 】
ひたすら自分を見つめ 自己が本来
もっている仏性に目覚めることが修行です
竹波の上 欅の木陰
夏は涼を求め 秋冬は洗心思索など
静かな雰囲気の中で
ひとときをたのしんでください
補陀落は餘所には
あらじ津金なる
大悲も深き海の岸寺
【 七仏通戒偈(しちぶつつうかいげ) 】
仏教の教えを簡単に言えば?という
質問にお釈迦様の十大弟子のひとり
阿難尊者(あなんそんじゃ)は次の詩(偈)を
以って答えられたと言います 石碑には
この詩の最初の二行(起承)が彫られています
諸悪莫作(しょあくまくさ)
衆善奉行(しゅぜんぶぎょう)
自浄其意(じじょうごい)
是諸仏教(ぜしょぶっきょう)
~ 意味 ~
あらゆる悪をなさず
もろもろの善を実行し
みずからその心を清らかにすること
これこそ諸仏の教えである
【七仏通戒偈(しちぶつつうかいげ)】は、過去七仏がともに守り続けてきた戒めの偈です。短い詩ではありますが、このうちに仏教のすべての教えが含まれるとされるほど重要なものです。
海岸寺 その魅力と4つのみどころ
海岸寺の魅力は、長野県遠野の名工・守屋貞治の生み出した石仏群と、長野県諏訪の名工・立川和四郎富昌の生み出した観音堂の木工彫刻という、ともに江戸時代後期に生きた2人の名工の江戸美術の粋が散りばめられた境内、そして、そんな境内を四季折々に彩る美しい自然環境にあります。
【みどころ1】名工・守屋貞治「海岸寺の百体観音」
「海岸寺の百体観音」と呼ばれる石仏群のうち代表的な観音は、
■聖観音(しょうかんのん)・・・主に立像で頭髪をゆいあげ、左手で蓮茎(れんけい)を持つ
■十一面観音(じゅういちめんかんのん)・・・頭頂部に複数の頭、蓮茎か蓮をさした水瓶(すいびょう)を持つ
■千手観音(せんじゅかんのん)・・・複数の手に多くの法具を持つ
■如意輪観音(にょいりんかんのん)・・・坐像で、右手を頬に当て、左手に輪宝(りんぽう)を持つ
■馬頭観音(ばとうかんのん)・・・怒った顔で頭頂部に馬頭を持つ
などです。
「観音」は、衆生(しゅじょう)の救済に専念する菩薩で、人々の「祈り(音)」を「み(観)」て、慈悲と現世利益を施すとされ、多くの信仰をあつめました。須玉町内にも多数の石造物があり、路傍の歴史的景観を形成しています。
「海岸寺の百体観音」は信州遠野の石工(いしく)・守屋貞治によって生み出されました。江戸時代、信州遠野は石工の里として全国的に知られ、遠野石工の中でも稀代の名工と呼ばれたのが守屋貞治です。
貞治の創作スタイルは、香を炊き、念仏を唱え、身を律しひたすら彫像に励んだといい、68年の生涯において336体におよぶ名作を残しました。
他の石工を圧倒する技量で彫られた貞治の石仏は、端正で繊細優美、意匠的に優れまさしく「貞治仏」と呼ぶにふさわしい名作・傑作ばかりです。
【みどころ2】名工・立川和四郎富昌「海岸寺の観音堂」
町指定建造物に指定されている「海岸寺の観音堂」は、桁行10.9m、梁間9.21m、「入母屋造り妻入り向拝付き茅葺(※5)(※6)(※7)」の建物で、諏訪の立川和四郎富昌らによって弘化2年(1845年)着工、約20年の歳月を費やして竣工をみた、立川流を代表する建物です。
※5)入母屋造(いりもやつくり)とは、東アジアにみられる伝統的屋根形式のひとつ。上部においては二方へ傾斜する切妻造(きりづまつくり)、下部においては四方に傾斜する寄棟造となる構造をもつ。日本においては古来より切妻屋根は寄棟屋根より尊ばれ、その組み合わせである入母屋造はもっとも格式が高い形式として重んじられた。
※6)建物の棟(むね)・棟木(むなぎ)と直角の面を「妻」、平行の面を「平(ひら) 」といい、妻入りは、建物の妻側に入り口を設けて正面とする建築様式。
※7)向拝(こうはい)とは、社寺の堂や社殿の正面階段上にふきおろしの屋根、ひさしをつけたところ。ここで参詣者が礼拝する。
その特色は細部が優れた彫刻によって満たされ、なかでも身舎正面の中間に付された「粟(あわ)と 鶉(うずら)」の彫刻はその最たるもので、富昌の芸術的才能をあますことろなく発揮した名作といわれています。
「粟(あわ)と鶉(うずら)」は古来から、和歌にも詠まれ、絵にも多く描かれてきた組み合わせでした。鶉は粟の実る晩秋の頃、群をなして集まることから、実りや幸福、繁栄や吉兆の象徴として縁起の良いモチーフとされました。
【みどころ3】六地蔵板碑
すべての衆生(しゅじょう)が生前の業因によって生死を繰り返す6つの迷いの世界。
「地獄」「餓鬼」「畜生」「阿修羅」「人間」「天上」の六道それぞれの世界において、衆生の苦悩を救済する6種の地蔵菩薩を六地蔵といいます。
■檀陀地蔵(だんだじぞう)
■宝珠地蔵(ほうじゅじぞう)
■宝印地蔵(ほういんじぞう)
■持地地蔵(じちじぞう)
■除蓋障地蔵(じょがいしょうじぞう)
■日光地蔵(にっこうじぞう)
海岸寺の六地蔵板碑は明応9年(1500年)に建立されたもので、六地蔵信仰と板碑が結びついたものとして、非常に貴重なものです。
【みどころ4】海岸寺の美しい自然 -春編-
北杜市の観光案内や各所の紹介でも薦められている、海岸寺おすすめの季節は「秋」と言われています。実際、海岸寺の紅葉や銀杏はとても美しいです。
しかし、海岸寺を包む自然は四季折々とても美しく、春には春しか見られない風景も当然あります。個人的に・・・厳しい冬が明け、徐々に草花が目を覚ましてゆくこの季節はとても好きです。花粉(症)が無ければ尚好きです笑
今回は、春の海岸寺で見つけた草花や、それらが彩る境内の風景を、静かな境内をゆっくり歩いている気分でお楽しみください。
海岸寺は、美しい自然に囲まれ、歴史的にも貴重な文化財が点在する、みどころの多いお寺ですが、観光のために解放されていません。
海岸寺は “ 人が生きていく道を静かに考えるところ ” と、案内されているように、たくさんの優しげな観音様に見守られ、美しい自然と静寂に包まれる時間は、、、本当にそういう気持ちにさせてもらえる素敵な場所です。
訪れた際にはどうか、祈りの場所であることを忘れず、お寺の境内は静かに参詣して下さるよう何卒よろしくお願いいたします。
おわりに・・・
海岸寺の境内には、このような手書きの、世界の歴史年表が掛けられており・・・
その最後の部分は、このような言葉で締めくくられていました。
これは持論ですが、たとえば・・・
今の自分が、過去の自分を振り返るように、
未来の自分が、今の自分を見たらどう見えているだろうか?
そう思うと、今の自分がする判断や行動には、
未来を変えていく力があるような気がします☆笑