むかしむかし・・・
山梨県韮崎市のある家に旅の僧が一泊しました。
翌朝、僧は一泊のお礼に「一年のうちに火の雨が降るので避難のため石室をつくるように。」と、言い残して去っていきました。村では、僧の言うことを信じて、石室をつくりました。
数ヶ月後、富士山が突然噴火しました。
甲斐国内は甚大な被害となりましたが、村の人々は石室のおかげで難を逃れることができました。その時の石室のひとつがこの「火雨塚(ひのあめづか)」であると言い伝えられています。
山梨県韮崎市の藤井町北下条にある「火雨塚」は、考古学的には古墳時代後期(6世紀~7世紀)の古墳と考えられています。
古墳としての火雨塚(古墳時代)
↓現在、古墳の土は失われ石室のみが露出していますが、韮崎市教育委員会が周溝(古墳の周りの堀)部分で試掘調査をしたところ、古墳の規模および形については直径約16mの円形の古墳になると推定されています。
↑上記写真、岩がいくつか並んでるのがお分かりいただけるかと思いますが、これが「横穴式石室」という、古墳の側面一方の側に出入口穴をもつ石室で、遺体を納める部屋(玄室)と外に通じる通路(羨道)から成る石積みの墓室です。
写真では奥に向かっていくつかの岩が並んでいますが、とくに手前の巨大な岩は横穴式石室の天井部分の岩と見られています。奥に向かって並んでいる岩は、横穴式石室の壁となっていた部分の一番下の石積みと見られています。
石塚としての火雨塚(中性~近世)
↓火雨塚古墳には、前述したような巨大な岩のほかに、河原でとれるような丸い小さな石がたくさん置かれ、その上には祠(ほこら)が置かれています。
これは、中性や近世以降に火雨塚古墳が信仰の対象となり、さらに石を積んで「石塚」として祭ったのではないかと考えられています。
藤井平とそれぞれの時代
「火雨塚古墳」の位置する場所は「藤井平(ふじいだいら)」と呼ばれており、「七里岩(しちりいわ)」という台地の東側斜面と、「塩川(しおかわ)」という奥秩父山地「瑞牆山(みずがきやま)」に端を発する川に挟まれた場所です。
藤井平は、塩川の氾濫によって肥えた土壌ができあがり、古来より有数の穀倉地帯となっています。そのため、古くから人々が生活していた痕跡が残っています。
縄文時代まで遡ると、多くの人々は七里岩の台地の上に住んでいたと考えられています。
弥生時代になると、人々は藤井平の低地に住むようになっていきます。藤井平は前述のように塩川の氾濫原でこそあったものの、そのおかげで肥えた土壌となり、水田耕作には最適の場所でもありました。
藤井平には弥生時代以降も絶えることなく集落がつくられました。
火雨塚古墳が造られた、古墳時代後期(6世紀~7世紀)の集落遺跡は、古墳から500mほど東で見つかっており、火雨塚古墳に埋められた人は、この地域を治めていた人(一族)であるとみられています。
古墳を造っていた時代が終わると、藤井平には奈良・平安時代の大集落が出現しました。中でも、火雨塚古墳からちょうど真北に700mほどの場所にある「宮ノ前遺跡(みやのまえいせき)」は、韮崎市教育委員会によって発掘調査が行われた際、400軒以上の竪穴建物、50軒以上の掘立柱建物の跡が見つかっています。
発掘調査が完了した宮ノ前遺跡の上には現在、韮崎市立韮崎北東小学校が建っています。また、今回ご紹介した火雨塚古墳は、縄文・弥生・古墳・平安時代の複合遺跡である「三宮地遺跡(さんぐうじいせき)」の中にあり現在、すぐ近くにある「東京エレクトロン韮崎文化ホール」南駐車場のほぼど真ん中にひっそりとたたずんでいます。
※当投稿記事は山梨県のホームページ「遺跡トピックスNo.0453火雨塚古墳―藤井平に現れた豪族の墓―」を参照させていただき文章を作成・構成させていただきました。
↑火雨塚古墳の祠の奥には「八ヶ岳(やつがたけ)」があります。また、写真右側に見えている白い建物は前述した「韮崎市立韮崎北東小学校」です。
↑そして八ヶ岳と逆方向、火雨塚古墳の祠と向かい合うように「富士山」があります。上記写真では左側の奥に薄っすらと見えています。
長い時代時代でここにいた人たちも、きっと同じ山の風景を見ていたんだろうな・・・と思うと、とてもロマンを感じます(//▽//)笑