御嶽山の思い出3 ~翠の御嶽山(摩利支天山 編)~

ここ日本には、日本の最高峰である標高3776mの「富士山」を含む、3000m級の山は全部で21座あります。

長野県の木曽町・大滝村と、岐阜県の下呂市・高山市にまたがり、広く美しい裾野を持つ複合成層火山(※1)である「御嶽山(おんたけさん)」もそのひとつで、日本の3000m峰21座の中で14番目に位置する標高3067mの独立峰(※2)です。

※1)成層火山(せいそうかざん)とは、ほぼ同一の火口から複数回の噴火により、溶岩や火山砕屑物(かざんさいせつぶつ)などが積み重なり形成された円錐状の火山のこと。

※2)独立峰(どくりつほう)とは、並び連なっている山々である「連峰」「連山」「山脈」などとは異なり、ただひとつのみで形成されている山のこと。

御嶽山は西暦702年(大宝2年)、役小角(※3)が開山したと伝えられ、古くから山岳信仰の山として多くの人々に大切にされてきました。現在、「富士山」「白山(はくさん)」と並んで「日本三大霊山(※4)」のひとつに数えられています。

※3)役小角(えんのおづの)は、修験道の開祖とされている飛鳥時代の人物。役の行者(えんのぎょうじゃ)という尊称でも呼ばれる。

※4)「富士山」「白山」に加え、「立山(たてやま)」とすることもあり、その場合、一般には「日本三霊山」と呼ばれることが多い。

読者の皆様もご存知のように、御嶽山は2014年9月27日(11時52分)に水蒸気爆発による噴火を起こしました。噴火警戒レベル1という平常時の段階で噴火したため、火口付近に居合わせた登山者ら58名が亡くなり、5名の方が2018年10月6日現在も未だに行方不明のままとなる、日本における戦後最悪の火山災害となってしまいました。

2018年9月27日でこの噴火による災害から4年が経ち、長野県木曽町はそれに先立つ26日、安全対策が整ったと判断して火口から半径1キロ圏内の立ち入り規制の一部を解除し、遺族や行方不明者の家族らでつくる「山びこの会」は慰霊登山をおこないました。この規制解除は10月8日まで実施され、その後は再び立ち入り規制が敷かれます。

噴火から4年。改めて、亡くなられた方々のご冥福をお祈りするとともに、行方不明の方々が一刻も早く見つかることを心より願っております。

御嶽山の思い出を、夏の風景で全4回に分けてお届けさせていただいており、今回はその2回目となります。

翠の御嶽山 ~摩利支天山 編~

前回の「御嶽山の思い出2 ~翠の御嶽山(剣ヶ峰 編)~」で、私が「御嶽山」のことを「木曽御嶽山」という愛称の方で呼んでしまう理由を、私の住む山梨県北杜市にあり、赤石山脈(南アルプス)の北端にある名峰「甲斐駒ヶ岳(かいこまがたけ)」に絡めてご紹介させていただきました。

木曽御嶽山も甲斐駒ヶ岳も、他にはない、それぞれ特有の素晴らしい景観と個性を持ちながらも、古くから信仰の対象として大切にされてきた山なのでどこか似たような神聖な雰囲気が漂っており、実は、同じ名前が付いたピークが存在しています。

それが、「摩利支天(まりしてん)」です。

山もしくはピークの名前にもなっている摩利支天とは、本来、仏教の守護神である天部(=天界に住む者)の一柱の名前です。原語であるサンスクリット語の「Marīcī」は太陽や月の光線を意味しており、摩利支天は「陽炎」を神格化したものです。

陽炎は実体がないので捉えられず、焼けず、濡らせず、傷付かない。護身・富裕・勝利などを司り、常に身を隠すという特性から “ この神を念じればすべての厄災を免れることができる ” とされ、日本では武士の間に摩利支天信仰が広まりました。

また、2007年にNHKで放送されていた大河ドラマ「風林火山」の主人公で、ここ山梨県(甲斐)の戦国武将「武田信玄(たけだしんげん)」の軍師を務めていた「山本寛助(やまもとかんすけ)」が信仰していたことでも知られています。

ただ、ご利益は本当に有り難いですが、逆にもしも、ロールプレイングゲームなどにおいて「実体がないので捉えられない」「常に身を隠す」「焼けない」「濡れない」「傷つかない」なんて敵が出てきたら、ものすごい嫌・・・な気がします笑

それでは、御嶽山の山頂から、摩利支天山へと出発です。

↓御嶽山の山頂からほぼ北方向を望んでいます。雲海を挟んで見えている山塊は「乗鞍岳(のりくらだけ)」です。その奥には「飛騨山脈(ひださんみゃく)」通称:北アルプスの山々が見えています。

一ノ池

御嶽山にはいくつかの火山湖があり、「一ノ池」から「六ノ池」まで6つの池の名前がついた場所が存在しています。とはいえ、6つの池が常に水を湛えているわけではありません。

御嶽山の剣ヶ峰の北側に接しており、眼下に広がっているのが「一ノ池」です。

↓一ノ池では水を見られることはほとんどなく、ほぼ枯れたような状態になっていることが多いといわれています。このときは、ほんのちょっとだけ水が見られました。

御嶽山の剣ヶ峰からは一ノ池を西側か東側に回り込むように登山道が分かれています。

↓下記写真は南方向、御嶽山の剣ヶ峰を望んでいます。通常、東側へ進む道(下記写真左側)への登山者がとても多かった印象が強いのですが、西側へ進む道(下記写真右側から手前)にも、そこだけにしかない風景が広がっていて、とても美しく好きでした。

ちなみに、御嶽山の山頂を周遊する登山道の中では一番西側を通過する道でもあります。

↓西北西を望んでいます。雲海の遥か先に見えているのは「両白山地(りょうはくさんち)」の「白山(はくさん)」その左側に「別山(べっさん)」です。

二ノ池

御嶽山の剣ヶ峰から標準タイムで30分~40分ほどで眼下に「二ノ池」が望めるようになります。二ノ池は、御嶽山にある火山湖の中でも数少ない、常に水を湛えている池でもあり火山湖特有のエメラルドグリーンは本当に美しいです。

↓また雪の残る二ノ池。湖畔に建つ山小屋は「二ノ池山荘」です。二ノ池の右奥に小さな池が輝きを放って見えていますが、この池に名前(ナンバリング)はついていません。下記写真の右奥、雲海の遥か先には八ヶ岳が見えています。

六ノ池

↓二ノ池から視線を少し左に移すと方角でほぼ北になります。眼下にある山小屋は「二ノ池ヒュッテ」です。二ノ池新館の少し北西側には「六ノ池」と呼ばれる場所があります。

↓国土地理院の地図にも「六ノ池」としてだいたいの場所は記載されてはいるのですが、所々で御嶽山の池の周遊を一ノ池から五ノ池までの「五池巡り」と紹介されていたりもすることから、六ノ池については、その場所がややあいまいな部分があります。

少し調べてみたところ、いくつかの紹介された記事をもとにすると下記写真の赤丸で囲った場所が六ノ池と呼ばれている場所でほぼ間違いないのではないかと思われます。よく見ると水を湛えているのがお分かりいただけるかと思います。

二ノ池ヒュッテ周辺にて

↓二ノ池ヒュッテへと下る道の途中からの風景です。次の目的地である摩利支天山の尾根の向こう側に、白山と別山が見えています。

↓二ノ池ヒュッテを過ぎたところで、とても素敵な出会いがありました。何がいるか、お分かりいただけますでしょうか?

↓ライチョウ(雷鳥)さんでした(笑)

↓ものすごく人懐っこく、どんどん近づいてきます(焦)

三ノ池乗越

↓二ノ池山荘および二ノ池ヒュッテから北へ標準タイムで約30分、「賽の河原」と呼ばれている場所を過ぎ丘を越えたところが「三ノ池乗越(のっこし)」という場所です。

ここまで来たときに眼下に望めるのが「三ノ池」という、二ノ池と並んで御嶽山にある火山湖の中でも数少ない、常に水を湛えているとても美しい池です。

↓三ノ池乗越から南、歩いてきた道を振り返っています。中央に二ノ池ヒュッテが少し小さく見え、左奥に剣ヶ峰がそびえています。

↓北方向、御嶽山の最北にある「継子岳(ままこだけ)」、雲海を挟んでその奥に乗鞍岳、飛騨山脈(北アルプス)の山々が見えています。

また、写真手前にある山小屋は「五ノ池小屋」で、「五ノ池」はその手前側に小さく見えています。今回の御嶽山シリーズの旅では継子岳まで向かいます。

↓ここから南東を望んで雲海の先に見えているのは「木曽山脈(きそさんみゃく)」通称:中央アルプス、折り重なってその奥に見えているのは「赤石山脈(あかいしさんみゃく)」通称:南アルプスです。

↓現在立っている場所の眼下、尾根上に建っている小屋は「賽の河原避難小屋」です。その傍にはちいさな祠があります。写真右奥には剣ヶ峰が見えています。

↓下記写真のやや左奥、御嶽神社奥社の建つ場所が剣ヶ峰ですが、その右側の稜線(外輪)のややくぼんでみえている場所の中に一ノ池があります。剣ヶ峰から一ノ池の周りを約2/3周ほど回り込んで来たのがお分かりいただけるかと思います。

↓上記写真から少し視線を左に移すと賽の河原からの沢(谷)の向こう側に御嶽山の標高2867m「継母岳(ままははだけ)」が見えています。

摩利支天山

↓三ノ池乗越から標準タイムで約40分、標高2959m「摩利支天山(まりしてんざん・まりしてんやま)」です。御嶽山の剣ヶ峰からは一ノ池を西側に回り込みながら進むルートの標準タイムで約2時間の道のりとなります。

いかがだったでしょうか?まだまだ御嶽山をめぐる旅は続きますが、御嶽山の楽しさは、頂上に立つことだけに非ず。。。というのが読者の皆様にも、なんとなく伝わったのなら嬉しく思います。

< 「御嶽山の思い出4」へつづく >

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